理学療法士が建築家を目指してみた

「理学療法士」兼「介護支援専門員」の30代後半の医療介護福祉従事者が、「建築家」を目指し一念発起。住まいや環境などについて考えたことや、自分自身の考え方などを発信していくブログにしていこうと考えています。医療介護福祉関係の方、建築関係の方問わず、様々な意見を頂ければ幸いです。また、30代後半からの転職を考えている方にも何か参考になることがあればと思います。

「適応」と「進化」に対する私見

 前回の記事から早2か月…。

 ボチボチ再開しようかと思います。

 

 以前の記事で、「認知症の原因はストレス社会に対する人体の適応ではないか?」という話をさせていただいたのですが、この「適応」ということについて普段私が考えることを書いてみようと思います。

 ↓認知症の話はこちらから。

ms-trss.hatenablog.com

 

・「適応」と「進化」について

・人類の特徴「環境を変える」

・進化と生物としての人間の可能性

 

 

1.「適応」と「進化」について

 

 生物は長い年月をかけてその時々の環境に適応するために進化をしてきました。その根底を成すものは生物の設計図を言われるDNAの配列の変化です。

 DNAに記録されているものは「たんぱく質」の設計図であり、DNAが変化するということは合成されるたんぱく質が変化することになります。その結果、出来上がったたんぱく質が今までになかった効果を発揮することもあります。

 

 例えば、元来首の短かったキリンの「首の長さ」を司るたんぱく質に変化が起こり、今までよりも首が長くなった。この場合、結果として高い位置にある食料を確保できるようになり生存確率が向上したためにその変化を起こした種、そのDNAの変化が「環境に適応した進化」として存続していくこととなったのです。

 

 このような変化はいつもプラスに働いていたとは限りません。

 キリンの話に戻りますが、より高い位置にある食物を得るためにさらに「首の長さ」を司るたんぱく質に変化が起こり、さらに首が長くなったキリンが生まれていたとしましょう。長い首を支持するためにはさらに大きな身体を獲得する必要が生じ、身体全体が大きくなるようDNAの変化が起こった可能性があります。この地球という1Gの世界で大きな身体を維持するために必要なエネルギー量を確保するための食事量は増え、それを支えるだけの環境がなくなってしまう。その結果、その種は生存し続けることができなくなってしまい淘汰されることとなる。このようなこともあったかもしれません。

 

 そのような長い年月をかけた「Try and Error」を繰り返しながら、刻々と変化する地球の環境に生物は進化を続け、今現在の生態系に至っているのです。

 

 

2.人類の特徴「環境を変える」

 

 その中で「人類」という存在がいかに特殊か、ということを改めて感じさせられます。

 

 それまで「環境に適応」するように生体を進化させてきた流れにおいて、「脳」を進化させて「環境を変える」力を得たことで、生体の変化を伴わず環境に適応することが可能になったのです。衣服を身にまとうことで、体毛を増やす進化をせずに済んでいるのです。

 そして現代において、人類における科学の発達は環境に適応するという目的を超え、生活をより快適に行うために周囲の環境を変えるに至っています。身近なもので言えばエアコンがいい例であると思います。冬の季節、寒さをしのぐだけではなく、空気清浄などの機能も備えている。身の回りを今の身体で過ごしやすい環境にすることができるのです。

 

 その中にあっても、生体として変化し続ける機能を失ったわけではありません。人類の身体は変化し続けています。

 

 先日某テレビ局の番組でDNAのスイッチという話をしているのを観ました。DNAスイッチというものは、あるたんぱく質をコードしているDNAからタンパク質合成までのプロセスを発現させるかさせないかを司るものであり、このスイッチがオンになるとそのたんぱく質を多く発現しそれに応じた身体の効果を生じるようになるということでした。「進化」のように長い時間、世代を通してのDNAの変化だけではなく、生体が生きている間にもその生活上での刺激によってDNAのスイッチは切り替わるというものでした。

 

 健康志向によりジョギングやサイクリングなどを行う人が増えていますが、日常生活において運動機会を多く持つ人は、その分筋肉への刺激が多く、筋たんぱく質の合成も多く行われます。そうすることによって、筋肉の合成を促すDNAスイッチがオンの状態になり、筋肉がつきやすい体質になることが予測されます。これは逆に考えると、運動機会の少ない生活をする人は、そのスイッチがオフになり、なかなか筋肉がつきにくい体質になってしまうということも言えることになります。

 体温調節についても同様です。空調設備の発達に伴い、「汗をかきにくい人」が増えてきていると言われています。本来人間は、体温を下げる手段として汗をかき、体表の水分が蒸発する際の気化熱で体温を下げるという機能を備えています。しかしながら空調設備の恩恵により「体温が上がる」という機会が減ってしまうことによって、その「汗をかく」という一連のメカニズムに関する機能を担う器官が未熟になってしまっているというのです。これもひとえに環境に対する生体の適応であると考えられます。

 

 人間の身体は37兆個もの細胞で構成されていると言われています。その一つ一つを維持するために代謝が行われ多くのエネルギーを消費しています。生体としては、何も不便がないのであればできるだけ最小限の機能を備えている状態でいる方がエネルギー消費も抑えられ生存に有利になると判断されると考えられます。生体におけるエネルギーを発生の大部分は、細胞内に住んでいるミトコンドリアという器官に頼っているからです。ちなみにミトコンドリアミトコンドリアDNAという生体の細胞核にあるいわゆるヒトDNAと呼ばれるものとは異なるDNAを持つ器官です。興味のある方は「細胞内共生説」を調べてみてください。

 

 細胞を維持していくためにはエネルギーを大量に消費する。それならば必要ない機能はオフにしてできるだけ省エネで生存できるようにしよう。生体がそう判断し、生体としての人間の機能をいわゆる「退化」させてしまう可能性がある、ということなのです。

 

 最初に述べた認知症の原因の話についても、高度の身体的精神的ストレスを受ける環境に身を置き続けることで、生体は防御反応としてどうにか回避しようと生体を作り替えます。その結果として感情を司る前頭葉の脳細胞をアポトーシス(プログラムされた死、自然死)させ、「何も感じなくさせてしまえば手っ取り早いよね。他の機能残しておけば死にはしないし」という判断をDNAレベルにおいて生体が下している可能性があるわけです。

 

 先程は空調設備の例を挙げましたが、交通技術の発達により歩く機会が少なくなりました。オートメーション化により、身体を動かさずとも様々なことができるようになってきました。「暮らしの便利さ」は格段に向上していますが、それが生物としての人間の身体に及ぼす影響は決してプラスだけではないはずです。

 

 そういった意味でも、今後は便利さの中にもやはり人間がこの地球上に生存する一つの「生物」としての尊厳を維持していくことができるような生活環境を構築していくことが重要になっていくのだと思います。

 

 数年前より「バリアフリー」に対する「バリアアリー」という考え方が出てきました。生活環境におけるバリアを無くし、転倒などを未然に防止する環境は重要なのは間違いありません。しかしながら動作上のあらゆる障壁を除いてしまうことはそこに住まう人の残された機能を失活させてしまうことにつながりかねません。ある程度の「危険」を残すことによって、その危険を回避するためのアクションが起こり、その行動を通して生体としての機能を維持することが可能になる、という考え方なのだと私は解釈していますが、「危険だから」という理由だけで「安全」という環境だけを与えていくことは、その対象者をDNAレベルで機能低下させてしまうことにつながっていくと考えられるのです。

 

 日常生活を通して、人間が『自然な形で脳と身体を使う環境』というものを考えていきたいと思います。

 

 

3.進化と生物としての人間の可能性

 

 話を戻しますが、人間をはじめとした生体はその環境に「適応」するために「進化」してきました。生存の危機に及ぶような状況になるといわゆる突然変異と呼ばれるDNAの変化を起こした種が生じやすくなると言われています。先に述べたよう、それも全て発現するたんぱく質の性質によるものなのですが、この「たんぱく質」がどれほどの機能を持ちうるのか、今後の研究に興味が持たれます。

 

 人間の目は光に反応するたんぱく質と、色に反応するたんぱく質として三原色それぞれに対応したたんぱく質を合成できますが、世の中には赤外線や紫外線を見ることのできる生物がいます。それは赤外線や紫外線に反応するたんぱく質を合成することができるからです。ということは、何かの拍子に突然変異で赤外線や紫外線を「見る」ことのできる人間が生まれる可能性があります。

 

 その考え方で言えば、この世の中の物理的な刺激は、その刺激に反応するたんぱく質が存在すれば感受可能である可能性があると言えます。MRI室の前で不快を感じる人がたまにいますが、この人はひょっとしたら身体のどこかで磁場を感受しているのかもしれません。「霊感が強い」という人も、今はまだ解明されてはいませんが霊的な物に何かしら物理的なシグナルがあり、それを見たり感じたりするたんぱく質を持っているという可能性だってあるかもしれないのです。

 

 そのように考えていくと、これからも人間はその時の環境によってどのようにも「進化」し続けていくことができるのだと思います。

 

 地球から抜け出し宇宙へと生活の場が広がっていく未来もそう遠くはないように感じられてきました。これからも進化し続ける生物として、日々を感じていく暮らしをしていきましょう。

未来の生活を考える

 2019年現在、様々なサービスやモノが溢れ、IT技術の発展により生活は非常に便利になりました。自宅に居ながら様々な物を手に入れることが可能になり、人とのつながりも機械を介して世界中どこからでも獲得することができるようになっています。

 

 以前の空き家問題についての記事にも少し書きましたが、そのような時代になったにも関わらず地方においては人が減少していく一方であり、今後それぞれの地方において人を集めるための取り組みを行っていかなければならなくなっていると考えられます。

 今回はそのことについて、私の思うことを書いていこうと思います。

 

 ↓以前の空き家問題についての記事はこちらから。

ms-trss.hatenablog.com

 

 

 「未来の生活」と言えば話が大きくなってしまいますが、20年後、30年後、我々の生活はどうなっているか考えたことがありますか?間違いなく今よりも科学技術、情報技術は進歩して、生活はより便利になっていることと思います。

 

 私が生まれたのは1983年、今から36~37年前であり、物心がついたのはそれこそ30数年前になります。その時に今のような生活が来ると私自身は当然考えていなかったのですが、おそらくその当時の世の中に、「30年後はこんなものがあってこういう暮らしができていたら便利になる」と信じていた人がいて、そうなるように働きかけてきた結果が今の世の中であると考えられます。

 

 ではそのことを踏まえて、改めてこれから20年先、30年先にどのような世の中が来るのか?

 

 それは、自分が20年先、30年先にどのような生活を「したいか」と考えた結果見えてくるものなのです。言い換えるならば、これから20年先、30年先の世の中を考え、作り上げていくのは、今社会で活躍をしている全ての人々なのです。

 

 世界を変えるような画期的な発明や、世界有数の大都市に限った話だけではなく、この小さな島国の一地方でも大きく変わる可能性は十分に秘めています。

 「我々が高齢となった時に、この街で、このような暮らしをしたい」

という想いを持って働きかけていくことによって、環境が変わり、人やモノが動くことによってさらに環境が変わり、街は生まれ変わっていくものだと思います。

 しかしそれには長い時間がかかります。5年、10年、はては20年、30年かかって少しずつしか変わることはできません。だからこそ「今」から自分自身が暮らしたい「暮らしを作る」ことを始めなければならないと考えたのです。

 

 

 このようなことを考えるようになった発端は、私の勤める地域における医療介護福祉の現場での深刻な人手不足にあります。当然この業界に限ったことではないのですが、若い人たちが都市部へと流れていってしまうこともあり地方においては労働者が少ないという現状があります。個人病院など小規模な施設になると若手がほとんどおらず職員の平均年齢も押しあがり,まさに「老老介護」が行われているような場所も少なくありません。

 

 少ない人数で多くの高齢者などの暮らしを支えていかなければならないために、労働者への負担は大きくなる一方です。医療介護福祉の仕事は(この仕事だけではないのは当然ですが)人が幸せに暮らすことができるよう支える仕事であると考えていますが、この「人の幸せ」は決して「誰かの不幸」の上にあってはならないものです。高齢者の暮らしを支えるために、労働者の生活の質が下がり、心身共に疲弊してしまう。そのような環境は持続することが困難であり、やがて破綻してしまいます。

 

 

 この問題を解決し地方が今後何世代にもわたって持続していくためには、人の流れがあり循環する環境を整えなければなりません。そのため取り組むことの軸になる部分は何かと考えたときに、

 「20年先、30年先後に望む暮らしを想像し働きかけること」

であると感じたのです。20年、30年後というスパンはおおよそ世代が一つ変わる間隔になると思われます。自らが一つ上の世代の年齢になった時にこの場所でどのような暮らしをしていきたいのか、ということを考え、形にしていくことによって「住みやすい街」はできていくのではないでしょうか。

 

 私は今まで医療介護福祉の現場で、人の「生」と「死」について向き合ってきました。人が生きていく上で心身共に安定し、そして「死」を迎えていくためには、その人自身の状態を整えるだけではなく、その人を取り巻くヒトを含めた環境を整えることが非常に重要になることを実感したのです。

 

 そのために自分にできることは何か。今の医療介護福祉の仕事ではどうしても及ばない部分があります。

 「環境を変える」という部分については現状のままでは手が出せないと考えられるのです。当然、私一人で全てを行うことはできません。しかしながら建築という分野を学び「環境」についての知識と経験を身に付け、医療介護福祉の知識と経験を合わせた複数の専門職を持つ者」として活動を行うことで、幅広く人と人のつながりを生み出し、地域を変えるという大きなことに取り組む力を発揮できるようになると考えられるのです。

 それはちょうど、介護支援専門員が医療、介護、福祉の様々な知識を身に付け、多くの専門職者と連携を取って一人の人間の暮らしをマネジメントすることと同じであると思います。ゆくゆくは、医療介護福祉の分野と建築の分野を中心に各分野がより深くつながるための取り組みを行うことが私の目標です。

 

 20年先、30年先に、地域の中で医療介護福祉がもっと身近に感じられる環境のある暮らしがしたい。私はそのために自分にできることを行い、働きかけていきたいと考えています。

学ぶことについて

 以前の記事で「学ぶことが人生の時間を長く豊かにする」ということについて述べましたが、今回は私自身の「学ぶこと」についてもう少し書いてみようと思います。

 

↓ 「学ぶことが人生の時間を長く豊かにする」記事はこちらから。

ms-trss.hatenablog.com

 

孔子にみる「学び」の経過

・自分に照らし合わせて考えてみる

 

 

1.孔子にみる「学び」の経過

 

 孔子論語より一文を挙げさせていただきます。

 

 吾十有五にして学に志す。

 三十にして立つ。

 四十にして惑はず。

 五十にして天命を知る。

 六十にして耳順ふ。

 七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。

 

 学校でも習う有名な言葉ですので一度は耳にしたことがあると思います。

 

 この言葉を簡単におさらいすると、孔子がその人生における学びを回顧したとき、まず15歳の時に学問を志したところに発したとされています。おそらくとても素晴らしいお方なので本当はもっと早くに学問に志を立てられていらっしゃったと思われますが。

 現在の我が国においても義務教育の終了は15歳であり、高校での高等教育については基本的に本人の意思に任されています。中学校を卒業し、これからどのような大人になっていくのかを考え、そのために必要なことを学ぶために志を立てる時期になるのだと思います。

 

 そして30歳の時に学びの基礎ができて自立することができるようになったとされてます。現在の社会で言うと社会に出て約10年近くになり、おおよそ自分自身のスタイルを確立できてきた頃になるでしょうか。社会の中での自分自身の立ち位置と言うか、自分自身に向き合い、本当の意味で自分を理解できるようになるのもこの時期なのかもしれません。

 

 40歳になると心に迷いがなくなったといいます。おそらく自分自身の学びや知識、経験に対しての自信が生まれ、物事の判断を下すことにためらいが無くなったのでしょう。40歳と言えば管理職などに就く頃でしょうか。それまでの経験から、迷うことなく正しい判断を下す、という立場を務めることができるようになる時期だと思われます。

 

 50歳ではついに天命を知ることになります。天が自分自身に与えた使命が何なのか、何を成す為に自分は存在しているのか、そういうことを知るに至ったのです。現代においても、50歳になり結婚していれば子供が徐々に自立し、社会の中においても自分自身が今まで何をしてきてこれから何をしていくのか、そういうことを考える時期になるのかもしれません。

 

 60歳では人の言うことが何でも素直に理解できるようになったと言われています。想像ですが、この頃の孔子にはあらゆるところから様々な価値観を持った人から様々な意見を述べに来られていたのだと思います。時には全く異なる思想を持った人の意見を聞くこともあったかもしれません。しかしながら、色々な人がどのようなことを言ったとしても、その言葉の一つ一つが意味を持つことを知り「善い」とか「悪い」とかを超越した次元においてその真意をたどることができるようになることで、発言した相手の気持ちを「素直に理解する」ことができるようになったのではないかと思います。

 現代人がその境地まで達することは難しいかもしれませんが、敢えて例えるとするならば、60代になり孫が生まれ、その孫に相対するときの気持ちに近いものなのかもしれません。我が子の時には叱っていたようなことであっても、孫になると許せてしまう。それはある意味「善い」「悪い」を超越し、孫のすること成すこと全てを「素直に理解」しようとする心と言えるような気がします。私の両親が孫に接する姿を見ていてそう思いました。

 

 そして70歳。人生の晩年になると、自分の気持ちに思うまま、何をしていても人の道を踏み外すことは無くなったということです。「心が変われば…」というウィリアム・ジェイムズの格言にもありますが、学びの中で培われた「心」を持って歩み続けてきた毎日の生活の行動が数10年の時を重ねる中で習慣となり、習慣が人格を形成するに至るのです。「学び」を通して自分の姿、自分の行い、そして自分の生き方そのものを定めてきた結果、人の道を踏み外さないことがある意味「当たり前」の人間になるに至ったということなのでしょう。

 逆に考えれば、孔子という偉大な人であっても、その境地に達するには70年かかったということなのです。それだけ「学び」には深さがあり、終わりのないものであると感じさせられます。

 

 

2.自分に照らし合わせて考えてみる

 

 これをもって自分の人生を改めて考えてみます。

 

 15歳で高校へ入学し、一浪して大学へ。

 理学療法士という医療職に就き、臨床の現場に出ながら医学的な研究などを行う中で、ある医師との出逢いから医療職の最高峰である「医師」という仕事への憧れを持ち、一時は医師を目指したこともありました。

 医師になるという想いは叶わず、臨床を続ける中で介護保険の知識の必要性を感じ介護支援専門員の資格を取得。そして今度は介護支援専門員としての介護福祉の現場も見ながら様々なことを学んできました。

 その時その時の環境や出逢い、考え方の変化に伴い、「学ぶこと」に対する志も様々に変わっていた時期でした

 

 そして36歳になった今、これまでの学びを通して改めて自分を見つめなおし、「自分にできることは何なのか」「自分のやりたいことは何なのか」という問いに対して、「建築家になる」という答えを見出したところになります。これが私の「三十而立」なのです。

 

 これからの生き方としては、まずは今までの学びの中で培われたものと建築という新たな分野での学びを通して自分の目指すべき場所を見定め、「この方向で生きていく」という心に迷いがないものにしていくことなのだと思います。そしてその生き方を突き進むことで私自身がこの人生で為すべきこと、つまり私の「天命」を知ることになっていくのではないかと考えています。

 

 そのように考えても「学び」というものは、決して一時的に行うものではなく生涯にわたって行っていくものなのだと感じます。

 

 皆さんは「学んで」いますか?

「転職」という人生の転機を迎える選択をしたこと

 日々の暮らしは、常に様々な小さい選択を行うことの繰り返しによって成り立っていると言われています。「今日」という一日をとっても、例えば朝起きて朝食はパンにするかご飯にするか、パンならトーストにするか菓子パンにするか、コーヒーを飲むかスープを飲むか。何気なく行っている毎日の営みは選択の連続です。

 

 そのような中にあって、いわゆる「人生の転機」と呼ばれる、人生を変えるような大きな選択をする場面に出くわすことがあります。就職や結婚もその一つと言えるのだと思います。人によっては過去を振り返り「今思えばあの時が人生の転機だったのかも」と認識する方もいるでしょうし、これから先の未来に人生の転機を迎える予感を感じる人もいるかもしれません。

 

 私は現在進行形で「転職」という「人生の転機」を迎える選択をしているわけですが、それにあたって考えていることなどについて書いてみようと思います。

 

・選択することについて

・先の不安に対して

・自己への評価について

 

 

1.選択することについて

 

 先にも述べた通り人生は選択の連続であり、数多くの選択をしてきた結果、現在の自分自身があると言えます。

 

 私の今までの傾向として、重要なことを決断するのに「考えすぎる」ことが多くありました。選ぶ前に色々あれこれ悩みすぎてスタートが出遅れてしまったことに加えて、選ぶ前に考え過ぎたがために今度は意地になり選んでから引くことができなくなってしまっている、という状態です。

 そのような時は大体が上手くいかず後悔ばかりしていました。また、最初に一度選んでいた方からあれこれ考えるうちにやっぱり別な方に変えてしまった時も、最初に選んだ方にしとけば良かった、ということがほとんどです。

 逆に、直感的に即決してきたことについてはほぼほぼ上手くいっていることが多いのです。直感という感覚はなかなか上手く表現することが難しいもので、人それぞれ感じ方は様々だと思いますが、私の場合は、自分自身が自然の流れの中に身を投じていて、「こっちに行きたい」という心地よい方向に向かう気持ちを私は直感として捉えています。

 

 細かいところで言えば、マーク式の試験などもそうです。選択肢を迷って時間をかけてしまった問題や、後の見直しで選びなおした問題については大体が不正解であり、一発で選んだものについてはほとんど正解しているというような感じです。

 

 それらのことも踏まえて過去の経験からここ数年私が決めていたことは、重要な場面での選択はまず直感を信じる、ということです。

 今回建築家への方向転換を決めたときも、「今方向転換したら、必ず面白いことのできる人間になれる」という直感からでした。

  

 ですのでこれからも、

 

選択を迫られる場面においては、何よりもまず自分の心に従って即行動する

 

ことにしていこうと考えています。

 

 早く動き出せば、たとえその選択が上手くいかなかったとしてもやり直しがききやすいですし、 何が上手くいかない理由なのかを把握することもより簡単になりますので。 

 

 

2.先の不安に対して

 

 「転職」に臨むにあたり、単身での移住による家族と離れた生活が始まるなど、今後生活が一変するために毎日の生活に不安を抱えてしまう可能性があります。しかし毎日の不安に囚われていては、成すべきことを成すことができません。

 

 以前親友にこういう例え話をしてもらったことがあります。(親友については以前の記事を参照)

 (↓建築家を目指すきっかけとなった親友が出てくる話。)

ms-trss.hatenablog.com

 

「真っ暗な海の上で、小さい船に一人で乗っている。

 

 何も見えず怖いので、手元を灯りで照らしてみる。

 

 すると身の回りが明るくなり、その場の不安は幾分か和らぐことができる。

 

 しかし、

 

 手元を照らす灯りは、遠くの島の街の灯りを見えなくする。

 

 今から目指すべき島のある場所を見えなくしてしまう。」

 

 イメージができますでしょうか?

 今現在の不安に囚われて、その不安を解消するためのその場しのぎの灯りを灯していても、本来自分が目指すべき方向を見失ってしまうということです。

 

 確かに、生活や家族のことに対する不安がないと言えば嘘になります。

 しかしながら、その不安や心配ばかりを気にしていては何も始まらない。出すべき一歩目の足を踏む出すことができないのです。

 

 不安の中でこそ見えてくるものはあると思いますし、生まれてくるものもあると思います。逆に言うと、不安や心配の中で見つけられたものこそが本当に必要なものであり、人生における鍵となることなのだと感じています。

 

 不安があることは、悪いことではない。

 むしろそこに重要なことが見つかるチャンスが眠っている 。

 不安を嫌い、目を背けるのではなく、反対に歓迎できるようなポジティブな心で臨むことですべてのことは好転していくのだと思っています。

 

 だって、それを決めるのは全部自分自身の心なので。

 

 

3.自己への評価について

 

 先に述べた「選択」や「不安への対処」は、頭で考えるだけではなく実践して初めて結果につながるものです。

 

 直感を信じて選択し、不安をチャンスとして迎え入れる。

 

 それには、「できる」という自分自身に対する信頼、「自信」が必要になると思います。

 自信を持つためには自己への評価を高く持っていなければなりませんが、皆さんはこの自己への評価、どのように感じているでしょうか。

 

  私の父は地方銀行の支店長として勤めたことのある人間ですが、その父が「自己評価」についてこういう話をしてくれたことがあります。

 

「毎年、人事考課の時に行員に自己評価を出してもらうが、自己評価を低くつけてくる人間がいる。

 本人からすれば『自分はそんなにできる人間ではないです』という謙遜の気持ちから自己評価を低くしているのかもしれないが、他者からすれば、そんなことは関係ない。

 自己評価が低いということは、『本当はまだできるけど、この程度しかやっていないです』と言っていることと同じ。

 仕事に対して真摯に取り組んでいれば、結果が十分でなくても自己への評価は高いはずだ。」

 

ということです。

 

 これは自分自身のことについても同じであると思います。自己評価そのものは他の誰が評価するものでもないので、自分自身が「自分はこの程度の人間だ」と低く評価してしまえば、その程度にしかならないのです。

 逆に言えば、自分自身が「できる」と思い自己を高く評価することによって、結果的にそのような人間になっていくのだと思います。そして、その経験を通して自分への自信は生まれてくるのだと思います。

 

 

 私自身も、自己への評価は高く持つようにしています。

 「自分には、あれはできない。これも難しい。」と考えるよりも、「あれもできる。これも簡単だ」と思う方が、行動の幅も広がりますし、第一歩目を踏み出しやすくなるからです。

 

 自分自身のためにも、自己評価は高く持つことをお勧めします。

「魅力」について考える

 ものすごく魅力があって、いつも多くの人々に囲まれている人がいます。

 「魅力」のある人の特徴としては、「芯があってブレない」とか「活動的で行動力が凄い」と言ったものがあると思います。エネルギーに満ち溢れている、という印象がある方にその傾向があり、無気力で怠惰な生活をされているような感じの人にはあまり「魅力」を感じないものです。

 

 この「人を引き付ける力」は、どのようにして発生しているのかについて、10数年前に親友から面白い話をしてもらったことがあります。

 人の「魅力」はどこから来るのでしょうか。

 今回はこの「魅力」というものについて私なりの解釈で物理的な観点から考えてみることにします。と、言っても、私も物理学の専門ではないので間違った解釈をしている部分もあり、難しい話はできませんのでお付き合いいただければと思います。

 

・簡単な物理のおさらい

・人間の「魅力」について考えよう

 

 

1.簡単な物理のおさらい

 

 人間を含め、この世のあらゆるものは原子を基にする物質で構成されています。

 物質は様々な運動をするのですが、その中で「回転運動」という運動があります。グルグルと回る運動のことです。回転運動によって生まれる力と言えば、有名なものは「遠心力」ではないでしょうか。

 水の入ったバケツをグルグルと回転させると、バケツが逆さの時にもこぼれることなく回り続けるという実験は誰しもが一度は見たことがあると思います。

 

 この「遠心力」という力は、角速度という回転する「速さ」に比例して大きくなります。バケツを回す速さを速くすると、よりバケツに引っ張られる力が大きくなるのが分かると思います。回す速さを速くすれば速くするほどバケツが腕から離れて飛んでいく方向に力が働きます。

 しかしバケツをしっかりと握っていると、バケツは飛んでいくことなく回り続けます。これは、遠心力の反作用の力として腕がバケツを引く力、「向心力(求心力)」という力が働くためです。「遠心力」と「向心力」の作用反作用のつり合いが取れていることで、人とバケツは一定の距離を保って回転運動を続けることができるのです。

 

 次はもっと大きな話になって、天体の話になります。

 我々の住む地球においても、かの有名な科学者がリンゴの落下を見て発見したと言われる万有引力の法則で知られる「重力」がかかります。この重力は、その惑星の持つ「重量」に比例して大きくなることが分かっています。地球の周りを月がクルクルと回り続けているのは、双方の重力を向心力としてお互いに引き付けあいながら、遠心力との絶妙なバランスの下で回転運動を行っているからと言われています。

 

 先の遠心力と向心力の話になりますが、回転する速さが速くなると遠心力増大の反作用として向心力が大きくなるため、その惑星の重心に引き付けられる力が強くなり、その惑星はギュッと密度が高くなってさらに重たくなります。ものすごく強い重力を持ち、光までも吸い込んでしまうブラックホールと呼ばれる天体がありますが、このブラックホールは、なんと光速の80%以上のスピードで自転しているものも存在すると言われています。それほどの回転速度で回ることによって、周囲の物質を引き寄せ、質量を持ち、さらに周囲のものを引き込んでいくのです。

 

 このように物質の物理的な面を考えると、「引き寄せる力」が見えてくるような気がします。

 

 

2.人間の「魅力」について考えよう

 

 それでは、物理的な話を頭に入れたまま、人間の「魅力」について考えてみます。

 

 まず「人間の活動」を「物質の回転運動」と同じように捉えてみます。

 活動的で行動力がある人は、すごい速さで回転している物質と言えます。ものすごく速く回転することによって、遠心力が強く働くことになります。これは、その人の持つ外に向かう力、すなわち「発信力」と見ることができます。速く回転すればするほど強い遠心力がかかるように、活発に行動を起こすことによって多くの人と出逢い、その行動が人々に様々な形で発信されて伝わるようになります

 

 遠心力が大きくなると言うことは、その反作用として向心力が高まります。発信力が大きくなり多くの人に影響を与えることによって、その力に呼応するようにして人々が引き寄せられてきます。物質が集まることで重量が増えるように、人が集まっていくことによってその人の「影響力」はさらに高まっていきます。そうすることでさらに多くの物質を取り込み「重力」が強くなるように、人が人を呼び、その人間の「魅力」表れてくるのではないかと考えられるのです。魅力的な人はそう、ブラックホールそのものなのです。ただ一点、輝いて見えることはブラックホールと異なりますが。

 

 また、回転運動に関する物理的な効果として「ジャイロ効果」と呼ばれるものがあります。自転する回転速度が速いほどその姿勢を変えにくいという性質です。これを魅力のある人に置き換えて考えると、先に述べた通り凄い速さで回転している物質と同じ状態であると言えますから、姿勢を変えにくい、つまり「芯があってブレない」ということにつながっているのではないかと思われます。

 

 自分の身の回りの「魅力」的な人を思い出してみるとどうでしょうか。そのような人たちは、ただ漫然と毎日を過ごしているのではなく、何か自分の求めるものに対してひたむきな努力をしていたり、自分の生き方に対してのこだわりを持っていたり、という過ごし方をされているのではないでしょうか。そしてそのような姿に周囲の人が感化され、集まっているように思われるのです。

 

 

 このように「魅力」というものを考えていくと、「魅力」というものそのものは形を伴わない非物質的なものなのかもしれませんが、物理の法則に従って人は引き付ける力を持ち、あるいは引き付けられていくのだと思われます

 この理解で行くならば、人としての「魅力」を持ちたいと思うときには、自分自身が心から望む姿を目指して邁進することに尽きるだと感じます。そしてそのような生き方を選択することによって、誰しもが「魅力」的になることが可能であると言えます。

 「魅力」を持つ人が特別なものでできているのではなく、先に述べたように、全ての人間が同じように原子を基に構成された物質なので。

人生の「時間」は延ばせるか?

 今年も12月が近づいてきましたが、令和を迎えたこの一年をどのように過ごされたでしょうか。11月、12月のカレンダーを見る頃になると、「もう今年も終わってしまう」「この前正月だった気がするのに」という言葉をよく耳にするようになります。

 人によって感じ方が様々なこの「時間」というものですが、果たして人生における「時間」は延ばすことが可能でしょうか。

 今回は、「時間」について考えてみようと思います。

 

・「刺激」と「時間」

・人生の「時間」を延ばすために。

 

 

1.「刺激」と「時間」

 

 歳を重ねると、時間が早く過ぎるように感じると言われています。一年の経過があっという間に感じてしまうようになるのです。特に、社会人になり仕事を始めるとそのように感じる傾向は強いと思われます。仕事柄、高齢者と関わることが多いのですが、この時期になると決まって多くの方に「もう正月が来るねぇ」と言われるものです。

 

 「歳を重ねると一年が短く感じるようになる」ということには、様々な推測がなされています。

 10歳の少年が過ごした今年1年は人生の1/10ですが、80歳の高齢者が過ごした今年1年は人生の1/80です。それまでに過ごした時間、経験に対しての割合が少ないということは、この一年の記憶が全体の記憶に占める割合が少ないということになります。そのため、一年が短いと感じると言われています。

 また日常生活における「刺激」が年齢を重ねるごとに少なくなってしまうということもあります。社会に出て毎日がルーチンワークのような生活になってしまうと、新たな刺激が入りにくく、いわゆる同じことの繰り返しになってしまうことで時間の経過が早く感じてしまうとも言われています。

 

 このテーマに関しては様々な人々の様々な意見が見られていますが、そもそも「時間」そのものが個人差を持つものでないことは当然のことです。「1日86,400秒」という時間はみな平等に与えられます。ですので、時間に関するどの意見においても共通するのは「人の脳」が時間を早めたり遅くしたりしている、ということになると思われます。

 

 人は絶えず外部環境から刺激を受けて生きています。その刺激は自分にとってプラスの要素を持つ刺激であったりマイナスの要素を持つ刺激であったりと多種多様であり、人は効率良く生存するためにその刺激を取捨選択して感受し、暮らしていると言えます。

 人は成長するに従って、この「取捨選択」の技術を身に付け、自分に必要な刺激を優先的に受けるようにし、不必要な刺激をシャットアウトできるようになっていくのではないかと考えられます。大人になり、社会的な活動が増え、たくさんの情報の中で生きていく上で、余計なストレスを自身に与えずに生存していくための戦略として、刺激を取捨選択することを学習していると思われるのです。

 

 子供の時はこの取捨選択が未熟なために、様々な刺激を何でもかんでも受け入れます。嬉しいことも楽しいことも、悲しいこともつらいことも、様々な刺激を感受し、それを自分自身で思考し、新たな記憶として取り込みます。そして次に同じ刺激があった際に受け入れるのか避けるのかの判断をするように「学んで」いるのだと思います。

 ですので子供のころは「学ぶこと」が多いです。毎日毎日、たくさんの刺激を受ける「学び」の中にいるからです。たくさんのことを経験して、たくさんことを感じて、たくさんのことを考えて。体験したことを通して記憶することが一日一日山のように増えていきます。

 記憶が増える、ということは、頭の中に刻まれる時間が増えるということを意味します。頭の中に刻まれる時間が増えるということは、つまり「時間の経過が長く感じる」ということにつながっていくと考えられるのです。

 

 「時間が長く感じられる」ということは、それだけ多くの刺激を感受し、思考し、学ぶことができているということになります。つまりそれは、自身が「成長している」ということに言い換えることができるのではないでしょうか。

 

 

2.人生の「時間」を延ばすために。

 

 私がこのことについてよく考えるようになったのは、ここ最近の実体験に基づきます。

 

 私は今年の6月に大阪の親友に会いに行き、自分のこれからの生き方について見直すことになりました。その日から、普段の生活や家庭のこと、仕事のことなど、自分の身の回りで起こるあらゆることについて、どうすればいいのか、これからどうなるのかと考える日々が始まりました。いつも、ある意味流れ作業のように過ごしていた日々に変化が訪れたのです。日常生活の中で「考える」という時間が、それまでよりも大きく増えたように思います。

 毎日毎日色々なことを考え、分からないことを調べたりすることを通して、多くのことを「学ぶ」日々を過ごすようになっていました。そうなると、一日一日が非常に長く感じるようになったのです。一週間、一カ月が数カ月くらいに感じるほど、私の中で時間の経過が遅くなったのです。

 そして、自分自身が「成長している」ことを感じるようになったのです。

 

 さらに少し余談になりますが、そのような状態になると、身の回りで起こることに対する感受性が高まるというか、刺激を受けやすくなるというか。取捨選択のフィルターが少なくなり、今まで当たり前のように感じてスルーしていたことに「気付く」ようになったり、些細なことに心が揺れて涙もろくなったりするようになってきました。

 自分が求める様々なことに対して感受性が高まり、自分自身のセンサーが働きやすくなると、不思議なことに、必要としていた物を見つけたり、影響を受ける人と出逢ったりということがチラホラ起こるようになりました。

 そういった経験が、さらに自分の「時間」の経過を遅くするようになってきたと感じさせているように思います。

 

 人間の脳において記憶を司る器官は「海馬」と言われていますが、その海馬に隣接する器官に「扁桃体」という記憶固定などに関わる器官があり、「感情を伴う記憶」を強く記憶するように働くと言われています。

 日々の生活の中で、喜びや悲しみ、怒りや楽しさなど、様々な感情を伴いながら刺激を受け、考え、学ぶことで、その人の中で記憶という形で「時間」は蓄積されていきます。子供の頃にそうだったように、素直な気持ちでいろんなことを体験していくことで、日々の記憶は積み重なっていくのです。

 それはつまり、人は「成長を続ける」ことによって、人生の「時間」を延ばすことができる、ということが言えるのではないでしょうか。

 

 日々の暮らしの中で様々な刺激から「学ぶ」機会があるにもかかわらず、無意識に取捨選択を行うことでその多くをシャットアウトしてしまい、「成長する」ことを忘れてしまってはいませんか?

 人間の脳は、生涯でその機能のほんの数%しか利用しないということが研究で明らかになっています。年齢は関係なく、人はいつでも、いつまでも「成長する」ことはできるのです。そして、「成長する」ことによって、人生をより長く、豊かなものに感じることができるようになるのです。

 

 

 人生の「時間」は延ばせます。

 一度きりの自分の人生、少しでも「長く」楽しむために、成長していきましょう。

認知症に対する仮説の話

  一般的に認知症の原因は、アルツハイマー病など脳に起こった病気や、加齢による脳の老化が原因と言われています。認知症は近年、社会的な課題の一つとして取り上げられており、医療介護福祉の場面においては特に大きな問題として扱われています。

 そんな認知症の原因について、ちょっと違った視点で考えていることがあるのでそのことについて書いてみようと思います。

 

・「適応」する身体

認知症が何故起こるのか考える

 

 

1.「適応」する身体

 

 人間の身体は常に作り替えられています。細胞は分裂と増殖を行い、古くなったり機能を終えた細胞は死んでいく。そのようなことが寝ているときも起きているときも繰り返されて私たちは生きているのです。

 この生体の営みは、外部環境の刺激を受けて絶えず変化しています。分かりやすい例として筋肉を取り上げてみましょう。

 

 昨今の筋トレブームで筋力トレーニングを行う人が増えてきました。我々理学療法士リハビリテーションとして筋力トレーニングを行うわけですが、なぜ筋力トレーニングを行うと筋肉が大きくなるのでしょうか。

 

 筋力トレーニングを行うと、筋肉の細胞と筋肉を動かす神経細胞に刺激が入ります。刺激を受けた細胞では、その刺激が何らかの形で細胞核の中のDNAに到達し、筋肉や神経を構成するたんぱく質の合成が促進されます(DNAやmRNA、tRNAなどの話は割愛します。興味のある人は自分で調べてみて下さい)。

 飲食によって小腸より吸収されたアミノ酸がこの細胞に集まり、新たな筋肉や神経を構成するたんぱく質として合成された結果が筋トレの効果として筋肥大や筋力増強という形で表れているのです。

 

 余談になりますが、先に述べた通り我々理学療法士は機能訓練の一環として筋肉や神経に対してアプローチを行います。それは言い換えれば細胞核、DNAに対するアプローチを行う、そんな職業なのです。

 理学療法は英語でPhysical Therapyと言います。このPhysicalには「物理的な」という意味があり、身体運動を物理学的にとらえる職業と解釈することもできます。しかしながらこの「物理的な」という意味は、「物理的な刺激」という意味にあるという解釈もあり、私はそちらの意味を重くとらえるようにしています。

 今現在一般的に行われているいわゆる筋トレでは、負荷をかけた機械的な運動による刺激、筋肉の収縮と伸張という直接的な刺激によってアプローチをかけます。しかし単純に「筋肉をつける」ということであれば、他の物理的刺激でも可能なのです。例えば温熱刺激でも筋たんぱく質の合成は促進されることが証明されています。様々な物理刺激がある中でより効率よく効果的に「筋肉をつける」ということで現在の手法を取っている、ということなのです。ですので今後の研究によって、現在の手法よりもより効果的に筋力をつけることができる物理的刺激が現れるかもしれません。DNAをより刺激するアプローチが開発されるのも楽しみです。

 

 話がだいぶそれてしまったのですが、とにかく筋肉に限らず人間の身体はその時々で様々な外部からの刺激を受け、その環境に「適応」するために絶えず変化しているということをまず知っていただきたいと思います。

 

 

2.認知症が何故起こるのか考える

 

 人間の身体が常に「適応」するために変化しているという前提で考えていったときに、ふと、認知症になる」ということ自体が、生存するための戦略として取られた手段であり、「適応」なのではないか、という仮説を考えるに至ったのです。

 

 現代はストレス社会であると広く言われています。精神的ストレス、身体的ストレス、世の中はストレスに満ち溢れています。そのような環境の中で生活し心身を壊してしまうという方が非常に多い現状があります。

 そんな中で、ストレスを感じずに生きるためには、ストレスをシャットアウトする、つまりストレスを「感じない脳になる」ことが手っ取り早いと生物学的なレベルで身体が判断する、という可能性は否定できませんストレス社会に「適応」して、生存するためにあえて脳機能を低下させるという方法を選択しているかもしれないのです。

 この生体における「正の反応としての認知機能低下」という仮説を立てて研究している人は、そういないと思います。機会があれば私自身がやってみたい研究であると思っていますが。

 

 身体的な面から考えた場合、慢性的な疼痛を抱えている人は認知症を発症する可能性が高いのではないか、と思っています。慢性的な疼痛で色々な治療を行っても効果があまりなく、長い期間ずっと痛みに悩まされている場合、楽に痛みというストレスから解放される方法は、「自ら認知症になること」なのではないかと。「本人が望んで」なるのではありません。「生物としての人間が生存していくために」なるのです。

 そう、「適応」なのです。

 

 この「慢性疼痛と認知症との関係性」についての研究には長期的な追跡調査が必要になるので、今現在のところ実際に研究を行ったわけではなく確証を持って言えることなのではないですが、今後共同研究を行ってくださる方がいらっしゃいましたら、ご一報ください(mail:koku83@yahoo.co.jp)。

 

 もしこの仮説が正しいとするならば、認知症予防の在り方も見直していく必要が出てくると考えられますし、疼痛に対する早期治療の重要性も再認識されると思います。

 そして、ストレスというものに対する関わり方を社会全体で変えていくことによって、認知症になる人の数を大きく減らしていくことができる可能性もあります

 

 最初に述べましたが、人間は絶えず変化し続けるものです。外部の環境からの刺激を受けて、どのようにも変化し、適応しうる能力を遺伝子レベルで備えているのです。

 今回は認知症の面から考えてみましたが、人間の生物としての適応力と、その「適応力を引き出す環境作り」ということについても今後様々なことを考えていきたいと思います。