理学療法士が建築家を目指してみた

「理学療法士」兼「介護支援専門員」の30代後半の医療介護福祉従事者が、「建築家」を目指し一念発起。住まいや環境などについて考えたことや、自分自身の考え方などを発信していくブログにしていこうと考えています。医療介護福祉関係の方、建築関係の方問わず、様々な意見を頂ければ幸いです。また、30代後半からの転職を考えている方にも何か参考になることがあればと思います。

人生の最期をどこで迎えたいのか?

 理学療法士として十数年病院勤務をする中で、人の最期に向かう機会が多々ありました。鹿児島のような地方都市、特に指宿市ともなると65歳以上の高齢化率が35.2%(2015年、全国平均26.6%)という全国の2025年問題で想定される人口比率を先取りしたような地域であるため、入院患者の年齢層も必然的に高くなり、80代、90代といった入院患者を担当することが多くなります。

 今回は、私が病院で最期を迎えられた患者との関わりを通して感じたことを書いてみようと思います。

 

 

 病院で理学療法士として患者と関わるとき、リハビリは一般的に一対一、20分単位で行うので、合間合間で患者と色々話をすることがあります。もちろん,リハビリの内容の説明をしたり運動に集中してもらうこともあるのですが、日常生活上の動作であったり活動を行う際に困っていることなど、その人の普段の生活に一歩踏み込んで話を聞き、何に困っているのか、どのようなニーズを抱えているのか、それに対してどうアプローチをしていくのかを考えて、生活機能の向上、果ては生活の質の向上を目指していく、というコミュニケーションをとっていくことになります。(あくまで私のリハビリのスタイルです。療法士の中にはコミュニケーション以外の違う方法でアプローチを考える方もいらっしゃるので、皆がそうではないですし、私のやり方が正しいやり方というわけでもありません。)

 その「生活に一歩踏み込む」というプロセスを通して患者との信頼関係を築き、その人がどのような価値観や生活感をもって生きているのかを理解していく中で、『どのような最期を迎えたいと考えているのか』ということに直面することもあります。リハビリの仕事では運動機能、生活機能の向上と「生」を考えることが主になるため直接的に「死」を考える機会自体は少ないのですが。

 

 疾病や障害を抱えて生きていく中で、この人はどのように最期へと向かっていくのだろうか。本人が望む最期を迎えられるようにするためには、身体機能としてどの程度の能力が必要なのか、そして療法士として、一医療人としてどのような関わりが必要なのか。病院で最期を迎えることになるこの人は、どのような気持ちで今を生きているのだろうか。そのようなことを考えることがしばしばあります。

 

 最期について問うた時、多くの患者、利用者が口にするのは、「やっぱり我が家が一番いい」、「人生の最期は自宅で迎えたい」ということです。何十年と暮らしてきた「住まい」はその人の一部であり、その家、その土地、その場所に対する想いは並々ならぬものがあるのでしょう。

 

 実際に私の担当する高齢者で、90歳を超えて一人暮らしをされている方がいらっしゃいました。遠方に住む家族が高齢になった母親が一人での在宅生活を心配する中で、どうしても自宅での生活を望まれる理由を尋ねた時に、その方はこうおっしゃったのです。

 「ここはみんなが帰ってくる場所なの。私がここにいないと、みんなが帰ってくる場所がなくなるでしょう?だから私がここを守っていないといけないの。」

 その人にとって「我が家」は、ただの住まいとしてだけではなく、離れて暮らす家族を結び付けるツールとしての役割も持っていたのです。

 

 私の祖母は徳之島に住んでいました。93歳で癌が発覚し入院するまでサトウキビ畑で仕事をするような人でした。かなり進行していた病気に対して徳之島では医療設備の関係から手術を行えないということで、奄美大島の病院に入院となり手術を受けました。手術を受けた祖母がまず希望するのは「家に帰りたい」ということ。術後すぐ歩く練習をはじめ、医師に何とか許可をもらい、術後数週間ののちに自分の足で船に乗り、徳之島の我が家に帰りました。我が家に戻った翌日家族に見守られて息を引き取りましたが、本人は幸せだっただろうと思いますし、我々家族も良かったと感じています。

 

 このような担当した高齢者との出逢いや祖母の経験があるからこそ、私自身としては「自宅で最期を迎えたい」という方と関わることができた時には、可能な限り自宅で最期を迎えられるよう考えていきたいと思うようになったのです。

 

 

 私が今まで関わってきた方々は、何かしらの障害や病気を抱えていたり、高齢で介護が必要であったりという人々が主となります。医療業界で仕事をしていると(私だけかもしれませんが)、高齢になるとほとんどの人がそのように何かしらの医療や介護のサービスを必要とするようになっていくような錯覚をしてしまうことがあるのですが、当然、世の中はそのような人ばかりではありません。

 大きな病気もせず元気に生活をされている人もいますし、高齢になっても介護の手を借りず自分の力、家族の協力のみで天寿を全うされる方も多くいます。むしろ、そういった人の方が割合として多いのかもしれません。そのような人々にとっては、「自宅で最期を迎える」ということはごく自然で当たり前のことなのだと思います。ただ、病気や障害を抱えてしまったり、介護が必要になってしまって自分の思うような生活ができなくなってしまった時に、改めて「自分が最期を過ごす場所」について考える必要性が出てくるのです。

 

 「我が家」に対する想いそのものにも当然個人差があると思います。単純な例として、地方に住む高齢者で長年その場所で暮らしてきたという人と、都市部に住む高齢者で40~50代に購入したマンションで暮らしているという人では、「我が家」に対する感じ方も異なるでしょう。また、戦前戦後を経験された高齢者と、その子供世代の方々など、世代によっても住まいに対する考え方は異なるように感じられます。そのような「我が家」に対する想いの違いは、「最期の時を迎える場所」に対する想いの違いにつながりがあると考えられます。「我が家で最期を迎えたい」と言う人がいるように、「死ぬときにはあの病院であの先生(医者)に診てもらいたい」、「認知症とかにになって手がかかるようになったら施設で看てもらいたい」という人もいます。

 最期を迎える場所に対する想いがそれぞれ異なる背景には家族関係や人間関係、人生観などが複雑に関わっているとも考えられますが、多くはその人の『「我が家」に対する想い』が強く影響しているように思うのです。家族のことを想うが故に我が家を離れる人と、家族のことを想っていても我が家から離れたくない人。その違いは「我が家」に対する想いの違いそのものなのではないかと。

 

 そのように考えると、「人生の最期をどこで迎えるのか」ということを考えていくにあたり、「人」と「住まい」の関係性その人にとって住まいというものが持つ意味を知ることは非常に重要なことであり、逆にそれを知ることで住まいに求められるものに気付くことができるのではないかと思います。

 

 

 あなたは、人生の最期をどこで迎えたいと思っていますか?