理学療法士が建築家を目指してみた

「理学療法士」兼「介護支援専門員」の30代後半の医療介護福祉従事者が、「建築家」を目指し一念発起。住まいや環境などについて考えたことや、自分自身の考え方などを発信していくブログにしていこうと考えています。医療介護福祉関係の方、建築関係の方問わず、様々な意見を頂ければ幸いです。また、30代後半からの転職を考えている方にも何か参考になることがあればと思います。

通勤電車に揺られながら

 大阪での勤務が始まって3ヶ月。

 コロナウィルスがだいぶ落ち着いてきたこともあってか、朝夕の通勤電車も人が多くなってきました。生まれて初めて『通勤電車』を利用することになった私にとって、昨今のコロナウィルス騒動はある意味不幸中の幸いと申しますか…通勤電車の利用を始めた4月上旬は通勤電車の利用者が少なく、都会の生活に馴染んでいくにはちょうど良い刺激量(人の多さ)であったために大きな問題を生じることなく今日に至るわけです。

 今回は、『通勤』を通して感じたことを書いてみようと思います。

 

 

『通勤時間』の持つ意味が変わった。

 

 鹿児島で勤めている時の私の通勤手段は自家用車でした。片道おおよそ30分。車を運転しながら、音楽を聴いたり、YouTubeの教育系コンテンツを聴いたり、普段のことについて色々と思案したり、ただ無心で運転したり。

 『運転』という作業があるためにその時間にできることは限られていました。通勤手段が電車に変わり、今までの通勤時間に「できることが限られていた」ことに気付いた、と、言った方が正しいかもしれません。

 

 現在職場までの通勤において電車に乗る時間は片道おおよそ30分。

 

 鹿児島で勤めていたときに毎日繰り返されていた通勤のための往復約1時間の時間と、今現在大阪で勤めるようになって毎日繰り返される通勤のための往復約1時間の時間。

 この同じ『1時間』が持つ意味が大きく異なっているのです。

 

 『運転』という作業が無いため、私は何か他の作業をする時間を獲得することができたのです。

 この時間を何に使うべきか。

 先日の記事でも少し触れましたが、私はこの時間を資格取得のための勉強の時間に使うことにしました。できることの自由度が大きくなったため、より効果的に時間を使う選択ができるようになったのです。

 

 1日1時間。1ヶ月の出勤回数がだいたい24〜5日(日勤4日、半日勤務2日で週6通勤している)であるため、1ヶ月でまるまる1日分の勉強時間を確保することができます。4ヶ月続けたら100時間。1年間で300時間の時間を活用することができます。

 資格獲得のために必要な勉強時間が300時間とも500時間とも言われる中で、この時間を利用しない手はありません。

 

 このように過ごすことを決めたのは、逆に、鹿児島での通勤時間の過ごし方があったからだとも言えます。今この状況で、鹿児島にいた時と同じように通勤時間を過ごしていいのだろうか?どのようにこの時間を過ごすことが今の自分にとって有益で効果的か?ということを考えることができたのです。

 

 しかしながら、それは、鹿児島で通勤している時に消費していた1日1時間の時間を否定する訳ではありません。

 毎日朝夕30分ずつ一人で車を運転する時間は、その時の私にとってリラックスするための時間であり、様々なことを考える時間であり。

 その時間を過ごしてきたことで、建築を学ぶために大阪へ出てくるということを行動に移すことができたとも言えます。

 

 このように過ごさなければならない、ということはないと思います。ただ、環境が変わることによって、これほどまでに『時間の持つ意味』が変わるものか、ということを感じさせられるのです。

 

 

ふと、顔を上げてみると。

 

 通勤電車には毎日たくさんの人が乗っています。参考書から目を離し、ふと顔を上げて周りを見ると、私が参考書を持つように多くの人が手にし、眺めているものがあります。そう、スマホです。

 おそらく、ネットニュースを見ている人、ネット動画を見ている人、SNSを見ている人、ゲームをしている人…見ているものは人それぞれ、様々だと思います。

 

 電車の中だけではなく、街中では多くの人がスマホを片手に歩いています。

 スマホの普及により、人は簡単にネットへ接続できるようになりました。多くの情報の中にすぐ身を投じることが可能になり、いつでも人とのつながりを持つことができる社会の到来。それにより、手元のデバイスという小さな社会に人々は多くの時間を費やすようになってきているのではないかと感じられます。

 携帯電話、インターネットが普及する前、皆どのようにしてこの時間を過ごしていたのかということを忘れるほどに、多くの人がそれぞれその小さな社会に身を投じている光景は、周囲の社会への無関心の塊のように感じられ、見方によっては異様なものとして感じることもあります。

 

 時間をどのように過ごすかは人それぞれであると思うし、私自身も今まで多くの時間をその小さな社会に費やしてきているので、正しいとか正しくないということでもないと考えています。

 ただ、私自身は、通勤時間という1時間をその小さな社会に身を投じ、「今やらなければならないこと」ではないことに使わないようにしよう。そういうことに時間を使うのは「もったいない」気がする。そう感じるようになったのです。

 

 そう考えるようになったのも、やはり環境の変化により物事の考え方や捉え方が変わったからなのだと思います。

 

 通勤電車に揺られながら、色々なことを考える3ヶ月でした。そしてこれからもまた、色々と考えるのだと思います。

 通勤電車に揺られる時間は、とても有意義で楽しいものなのだと感じます。