理学療法士が建築家を目指してみた

「理学療法士」兼「介護支援専門員」の30代後半の医療介護福祉従事者が、「建築家」を目指し一念発起。住まいや環境などについて考えたことや、自分自身の考え方などを発信していくブログにしていこうと考えています。医療介護福祉関係の方、建築関係の方問わず、様々な意見を頂ければ幸いです。また、30代後半からの転職を考えている方にも何か参考になることがあればと思います。

資格を取る① 〜宅地建物取引士〜

 先日、10月に行われた「宅地建物取引士」いわゆる「宅建士」の資格試験の合格発表があり、無事に合格することができました。

 今年の宅地建物取引士資格試験は、コロナの影響により10月と12月の2回に分けて試験が行われることになりました。私は早々に願書を提出したことから10月開催の方で受験することになりました。

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試験会場。大阪にある大和大学が受験会場でした。

 10月実施の宅建試験ですが、全国の実施結果は、申込者206,461人に対して受験者数168,989人(81.85%)、合格者数29,728人で合格率は17.6%というものでした。

 今回の試験に関しては、試験後のネットへの書き込みなど見ていると、「易しかった」という意見がチラホラあり、実際合格基準点も38/50点と高めであったため、難易度としては標準的なものとしながらも、取れるところをしっかり取れていた人が合格できたのではないかと思います。

 

 実際に受験した感想としては、やはり序盤の問題でつまずいてしまい、それを後の問題まで引きずってしまった方は冷静に回答できず、基本的なことを問われた問題なども落としてしまっただろうと思います。見切りをつけられる問題は早々に見切りをつけ、確実に取れる問題に集中できたらしっかり加点できたのではないかと感じます。

 私自身は自己採点で40/50でしたが、やはり合格発表の日に自分の番号を見るまでは不安があったのも事実です。

 

 さて、今回の宅建士試験についてですが、私自身がこの資格に挑戦した理由は先の記事に書きましたが、受験するにあたって自身に課したルールがあります。

 なぜ挑戦したのか?はこちらから↓

 

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 宅建試験を受験するルール。

 一つ目は独学で行うこと。二つ目は今年限り1回だけの挑戦にすること。

 

 独学で行うことについては、まず第一に時間的な制約があることが理由の一つです。仕事と学校と、そこに宅建士のスクーリングなんてとてもじゃないけど時間が取れない。しかも建築施工管理技士の資格試験の勉強も並行して行う予定だし。

 コロナ禍の影響で学校の方がオンライン授業になり、時間的な余裕ができたので資格試験に挑戦しようと考えたことは確かですが、そのために新たに何か受講するということはまず無理なので、とにかく独学で計画的に勉強することにしました。当然、金銭的な問題も大きかったわけではありますが。

 

 独学での資格試験の勉強については、自分なりの方法を確立しているところがあるので比較的スムーズに取り掛かることができました。介護支援専門員の資格試験での経験がここでも生きたように感じます。

 基本的には一度「参考書」というかいわゆるテキストを流し読みし、その後はとにかく問題集を解きすすめ、分からない部分をその都度調べる。最初の流し読みでは別に覚えようとするのではなく、「こんなことがあるのね〜」くらいの感じで読むくらいにしておいて、問題に取り掛かったときに、「あ、なんかこんなこと書いてた気がする」程度のレベルで覚えていたらラッキー、くらいの感じです。

 問題集はたくさん用いず、必要最低限を複数回行うこと。今回は問題集、参考書を合わせて3冊だけ購入しました。

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基本的に取り組んだ2冊。問題集は3回通りました。

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試験1ヶ月前に実践形式の問題が欲しくて追加購入した問題集。

 LECさんの「宅建士合格のトリセツ」の基本テキストを読み、基本問題集を解く。分野別に苦手な所は基本テキストを見直しながら問題集を重点的に解き直す…を繰り返し続けました。

 試験1ヶ月前になって、「実践形式の問題をやっていない!」と慌てて「直前予想模試」を購入。こちらも3回通して行い、分からないこと、新しい情報などを調べながら取り組みました。

 宅建試験用のテキストは色々な会社からたくさん出ていますが、私はこちらのテキストが自分に合っていたみたいで良かったです。他を見ていないので、比較は出来ませんが。

 

 そして二つ目のルール、今年限りの受験にすること。

 資格試験を受けるにあたって、「今年ダメだったら来年頑張ろう」は禁句だと思っています。同じ内容をまた1年勉強する、というのはモチベーションの維持が極めて難しいので、結局翌年受けるときにも同じことを繰り返す可能性が高いです。

 私自身は以前、医者を目指して医学部の学士編入試験や一般入試(いわゆるセンター試験から受けるやつ)に5年間くらい挑戦していたことがありましたが、ハッキリ、終盤は惰性でやっていた感も否めません。その経験からも、とにかく次はない、今年限りと決めて挑戦することにしたのです。

 さらに来年の受験の時期には、学校の方が忙しくなり、さらに就職活動などその他のことも大きく動き出している頃だと思われるので、精神的にも肉体的にも2度目の資格試験に挑める状態ではない可能性が高いです。

 それらのこともあり、今年だけと決めていたこともあります。

 

 兎にも角にも、なんとか一つクリアできて、ホッとしています。

 今年掲げた、「資格を二つ取る」という目標の一つは達成です。もう一つの資格試験、「2級建築施工管理技術検定」も11月に終わっていますがこちらの合格発表は来年1月末。こちらは正確には資格獲得の条件を満たすことはないのですが、こちらについてはまた後日記事にします。

 

 そして、また新たな資格獲得に向け勉強開始していきます。

製図に関するこの8ヶ月の成長について

 2020年4月から建築の学校への通学を開始して8ヶ月。コロナの影響により建築製図の授業に関しては課題を自宅で行うというほぼ独学の状態なわけでありますが、この数ヶ月の間での製図課題を見直しながら、改めて自分の成長と今後の個人的課題について考えて行きたいと思います。

 

 建築製図の練習は、とにかくまず水平、垂直の真っ直ぐな線を、太い、細いを使い分けて描くことから始まりました。私の場合基本的に0.5mmの製図用シャーペン(Pentel・GRAPHGEAR500)を使用していますが、太線、細線の使い分けはこの1本のシャーペンを傾ける角度で行なっています。

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Pentel・GRAPHGEAR 500(後にGRAPHGEAR1000も購入)

 ただ真っ直ぐの線を引くーこれがどんなに難しいことか。

 まっすぐ引いているつもりでも、方眼を描くと正方形でない四角がある。つまり「まっすぐ」引けていない証拠だ。

 さらに2mm間隔の太線の中心に細線の1点鎖線を描く、高さを揃えて文字を書くなど、製図の基本を何度も練習。これができないと今後複雑な図面なんて描けるはずがない。

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線の練習1

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線の練習2

 線の練習の次は簡単な図形の練習。アイソメ図とそのアイソメ図の立面図、断面図を描く練習をしました。「ここで切断したらどんな図形が見えるか」とか考えながら描くのは好き。子供の頃からこういうの描くのは好きだったので楽しい。しかも平行定規使って本格的に描いていることがまた楽しい。

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ちょっと図の練習になってきた

 次に練習したのが建具の練習。建具とはドアとか窓とか開口部に付いてるやつのことで、いろいろな種類の建具を描いていく。同時に「1/100」というスケール感を掴んでいく。壁の厚さはこれくらいで描くんだー、とか、ドアだけでもこれくらいの大きさで描くんだー、とか。

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建具の練習。結構細かい。

 そして、いよいよ住宅の製図が始まりました。まずは木造平屋建ての住宅を描いていくことになります。基本的な図面として最初に練習したのが平面図。建物を水平に切断して真上から見たやつのことです。前回練習した建具をフル活用して描いていく。…けど何度も描いた後に間違いに気がついて描き直しの繰り返しでした。

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平家の平面図。一気に建築製図やってる感出てきた。

 平面図の次は断面図の練習。先に描いた平面図をある線で切断して真横から見たらどう見えるか?を描くもの。2Dの世界から3Dの世界へようこそ。建築物は当たり前だけど立体なわけだから、常に考えておかなければならないのは「幅」、「奥行き」に加えて「高さ」になります。

 ちなみに、切断した断面になる線は太線、そうでない奥にある線(見えがかり、って言う)は細線で描く決まりがある。これが上手にできると、ものすごく図が引き締まって見える感じ。

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断面図の練習。

 断面図に引き続き立面図。これは建物を外から見た時の図。この図を書く時も線の太い細いを使い分けることでよりリアリティーな仕上がりになる。1/50スケールなので細かくなったとは言えまだまだ描きやすい…のか?

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立面図。玄関の引き違い戸描くのが大変だった思い出。

 そして次は、矩計図(かなばかりず)の作成。矩計図は断面図のさらに細かいやつで、どんな材料を使っているのか、材料の大きさが何mmかとかの詳細も書き込むやつ。スケールは1/20になるが描き込むものが細かいので大変。だけど、これを自ら描くことで木造建築物がどのように作られているのかを理解することができたのもまた事実。

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矩計図。すごく細かい。

 ここにきて、製図の実力確認テストということで学校で製図試験が行われた。予め配布された課題図を約3時間以内に仕上げるという試験だ。前もって課題内容が分かっているので、テスト前に自宅で何度か練習。初めは5〜6時間かかってしまったが、徐々にスピードも上がり本番は2時間半ほどで描きあげることができた。しかも図面の評定はA+をいただいた。練習の甲斐があった。

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実力テスト。写真はテスト課題の練習で描いたもの。

 実力テストも終わり、まだまだ課題は続く。次の課題は一般図というもの。木造2階建住宅の平面図、立面図、断面図を1枚の用紙にまとめて描く。この課題では初めて外構(家の外回りのこと)についても描くことになる。これを描いたら、本格的に建築士に近づいてきた気がするが…圧倒的にスピードが遅い。1枚仕上げるのに10時間近くかかってしまった。しかしながら、これからこの図面をもっと短い時間でしかもさらに綺麗に描くことができるようになると思うと楽しみでしょうがない。

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一般図。建築の図面らしくなってきたかなー?

 11月9日現在、また新たな製図課題が出されている。早めに取り掛からねばと思うが、昨日までの資格試験の疲れがあり先週は手が付かなかった。まぁ、今週頑張ろう。

 こうして振り返ると、この8ヶ月で全くの素人だった私がこれだけの図面を描くことができるようになったことが喜ばしく感じられると同時に、これからさらに上達していけることに対する希望や、やりたいことを始めることに遅いということはない、年齢は関係ないということを改めて感じることができた。

 

 製図は技術であるため、とにかく量を重ねれば重ねただけ上達していくと先生に言われた。人より遅れてこの世界に身を投じた自分がやることは一つ。同じ時間を過ごす間に人より多く手を動かし、考え、経験を積むこと。

 自分のため、日々精進。

病院での仕事について

 大阪に来て5ヶ月になろうとしていますが、私の現在の仕事について少し書いてみようと思います。

↓大阪に来てからの記事はこちら

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 私は理学療法士としてリハビリの仕事をしています。今年の3月までは2年ほど介護支援専門員(ケアマネージャー)として働いていたのですが、今回大阪に来るにあたり、改めて理学療法士として勤務させていただくことになったのです。 

 

 今回私が主に担当することになったのは、「地域包括ケア病棟」という病棟になります。あまり聞いたことのない病棟であるかと思われます。

 入院することになった患者は、治療を受けることで病気を治し退院していくのですが、単純に病気の治療が終われば入院前の生活に戻ることができる…というわけにはいかない方もいます。

 高齢者に多い例として、入院前のような生活を送ることが困難となり、介護保険サービスの調整が必要になったり、あるいは自宅での生活が難しくなることから施設入居を検討したり…といったことが往々にしてあります。

 そのような場合に、60日以内という期限を設けて退院に向けた調整を行うための病棟がこの「地域包括ケア病棟」ということになります。

 

 私がこの病棟を担当させていただいた理由の一つとしては、介護支援専門員としての経験が挙げられると言えます。

 退院後の生活を考えていく上で、単に身体機能や日常生活活動だけでなはく、「その人らしい人生の送り方とは」という部分まで視野に入れた支援というのは、従来の病院ではなかなか行われていないのではないかと思われます。

 確かに「病院」という医療のサービスに求められることは第一に「心身の疾患・障害を治すこと」であり、患者自身の生き方であったり、真の意味での生活の質(QOL:Quality  Of  Life)については、介護・福祉サービスの分野が主として担う、という認識が強いためではないかと思います。

 

 そのために私自身が理学療法士としての「医療」サイドからの立場と、介護支援専門員としての「介護・福祉」サイドからの立場の両方を通して感じたことは、この「医療」と「介護・福祉」の間には、まだ「壁」とは言わずとも何かしら「仕切り」のようなものがあるのではないか、ということです。近くて遠い、何かそういうものを現場レベルで感じることが実際にあるのです。

 

 そのような現状がある中で設けられたこの「地域包括ケア病棟」という病棟は、まさにその「医療」と「介護・福祉」の間の垣根を取り払う場所でなければならないと感じます。さらに言えば、「医療」と「介護・福祉」の間だけにとどまらず、「病院」という施設がもっと地域に開かれた場として、様々な業種、様々なサービスと盛んに連携を取れる場になる可能性を持つようになることがこれからは求められるのではないかと思うのです。

 

 高齢者に限った話ではありませんが、長期入院を強いられた時に、毎日の代わり映えのしない入院生活で生きる意欲を失い、人生の楽しみを忘れてしまう、ということはよくある話ではないかと思います。そのような状態では、なんとか退院したとしても、在宅での生活を継続していくことが難しくやがて入退院を繰り返すようになり、そのまま寝たきりになっていく…そんな患者が多くいたことも確かであると思います。 

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 しかし、その入院生活の中で、新たな楽しみとの出会いがあったら?新たな生きがいを見つけることができたなら?

 「入院」というイベントが持つ意味、人生に与える影響が大きく変わるのではないかと思います。

 例えば、入院先の病院で絵画や料理、美容、ボランティア活動、活花、植栽、読書、旅行…あらゆるサービスに触れ、それが新たな生きがいになる。そのことで退院後の生活に楽しみを持つことができ、活動量が増える。そのために病院と、各種サービス機関が連携をとり、入院患者に対しても多くのサービスを提供していく。

 それはただ患者の生活、人生だけの話にはとどまらず、地域の活性化、経済活動の活性化、健康寿命の増進など多くの分野に対してプラスに大きく働いていく可能性を秘めています。

 病院は病人が行く、ということから、どこかネガティブなイメージが強く、「楽しみ」というものに対してタブー視する傾向があるのに違いはないと思います。しかしながら、病院は「病気を治療するために行く」という場所から、「生き方を考え、生き甲斐を見つける場所」になり得ると私は考えるのです。そのためには、「病院」そのものが開かれ、多くのサービスと積極的につながりを持つことが求められる時代が来ると思うのです。

 

 以前の記事で「還元型の社会について考える」という記事を書きましたが、まさに「病院」という機関がその役割を変えることによって、地域を大きく変えることができると思います。

 今勤務させていただいているこの職場で、地域における病院の役割、そして地域の中での様々なサービスの繋がりについても考えていくことができたらと考えています。

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通勤電車に揺られながら

 大阪での勤務が始まって3ヶ月。

 コロナウィルスがだいぶ落ち着いてきたこともあってか、朝夕の通勤電車も人が多くなってきました。生まれて初めて『通勤電車』を利用することになった私にとって、昨今のコロナウィルス騒動はある意味不幸中の幸いと申しますか…通勤電車の利用を始めた4月上旬は通勤電車の利用者が少なく、都会の生活に馴染んでいくにはちょうど良い刺激量(人の多さ)であったために大きな問題を生じることなく今日に至るわけです。

 今回は、『通勤』を通して感じたことを書いてみようと思います。

 

 

『通勤時間』の持つ意味が変わった。

 

 鹿児島で勤めている時の私の通勤手段は自家用車でした。片道おおよそ30分。車を運転しながら、音楽を聴いたり、YouTubeの教育系コンテンツを聴いたり、普段のことについて色々と思案したり、ただ無心で運転したり。

 『運転』という作業があるためにその時間にできることは限られていました。通勤手段が電車に変わり、今までの通勤時間に「できることが限られていた」ことに気付いた、と、言った方が正しいかもしれません。

 

 現在職場までの通勤において電車に乗る時間は片道おおよそ30分。

 

 鹿児島で勤めていたときに毎日繰り返されていた通勤のための往復約1時間の時間と、今現在大阪で勤めるようになって毎日繰り返される通勤のための往復約1時間の時間。

 この同じ『1時間』が持つ意味が大きく異なっているのです。

 

 『運転』という作業が無いため、私は何か他の作業をする時間を獲得することができたのです。

 この時間を何に使うべきか。

 先日の記事でも少し触れましたが、私はこの時間を資格取得のための勉強の時間に使うことにしました。できることの自由度が大きくなったため、より効果的に時間を使う選択ができるようになったのです。

 

 1日1時間。1ヶ月の出勤回数がだいたい24〜5日(日勤4日、半日勤務2日で週6通勤している)であるため、1ヶ月でまるまる1日分の勉強時間を確保することができます。4ヶ月続けたら100時間。1年間で300時間の時間を活用することができます。

 資格獲得のために必要な勉強時間が300時間とも500時間とも言われる中で、この時間を利用しない手はありません。

 

 このように過ごすことを決めたのは、逆に、鹿児島での通勤時間の過ごし方があったからだとも言えます。今この状況で、鹿児島にいた時と同じように通勤時間を過ごしていいのだろうか?どのようにこの時間を過ごすことが今の自分にとって有益で効果的か?ということを考えることができたのです。

 

 しかしながら、それは、鹿児島で通勤している時に消費していた1日1時間の時間を否定する訳ではありません。

 毎日朝夕30分ずつ一人で車を運転する時間は、その時の私にとってリラックスするための時間であり、様々なことを考える時間であり。

 その時間を過ごしてきたことで、建築を学ぶために大阪へ出てくるということを行動に移すことができたとも言えます。

 

 このように過ごさなければならない、ということはないと思います。ただ、環境が変わることによって、これほどまでに『時間の持つ意味』が変わるものか、ということを感じさせられるのです。

 

 

ふと、顔を上げてみると。

 

 通勤電車には毎日たくさんの人が乗っています。参考書から目を離し、ふと顔を上げて周りを見ると、私が参考書を持つように多くの人が手にし、眺めているものがあります。そう、スマホです。

 おそらく、ネットニュースを見ている人、ネット動画を見ている人、SNSを見ている人、ゲームをしている人…見ているものは人それぞれ、様々だと思います。

 

 電車の中だけではなく、街中では多くの人がスマホを片手に歩いています。

 スマホの普及により、人は簡単にネットへ接続できるようになりました。多くの情報の中にすぐ身を投じることが可能になり、いつでも人とのつながりを持つことができる社会の到来。それにより、手元のデバイスという小さな社会に人々は多くの時間を費やすようになってきているのではないかと感じられます。

 携帯電話、インターネットが普及する前、皆どのようにしてこの時間を過ごしていたのかということを忘れるほどに、多くの人がそれぞれその小さな社会に身を投じている光景は、周囲の社会への無関心の塊のように感じられ、見方によっては異様なものとして感じることもあります。

 

 時間をどのように過ごすかは人それぞれであると思うし、私自身も今まで多くの時間をその小さな社会に費やしてきているので、正しいとか正しくないということでもないと考えています。

 ただ、私自身は、通勤時間という1時間をその小さな社会に身を投じ、「今やらなければならないこと」ではないことに使わないようにしよう。そういうことに時間を使うのは「もったいない」気がする。そう感じるようになったのです。

 

 そう考えるようになったのも、やはり環境の変化により物事の考え方や捉え方が変わったからなのだと思います。

 

 通勤電車に揺られながら、色々なことを考える3ヶ月でした。そしてこれからもまた、色々と考えるのだと思います。

 通勤電車に揺られる時間は、とても有意義で楽しいものなのだと感じます。

この数ヶ月のことについて

 前回の投稿より4ヶ月…。

 ボチボチ再開しますと言いながら気が付けば4ヶ月も更新しない有様でした。反省。

 

 前回の記事を投稿してからのことを掻い摘んで書いてみようと思います。

↓前回の記事はこちら 

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 通学のために単身、大阪へ

 

 2020年の3月中旬、前職場での介護支援専門員としての業務を終えて、4月から専門学校へ通学するために大阪へ単身転居することになりました。

 

 いよいよ鹿児島での勤務もあと数日という時になって、子供が入院になるアクシデント発生。妻と交代で病院に泊まり込み看病することになったため、ゆっくりと家族で過ごす間も無く日にちが過ぎていき、合間合間で市役所での手続きや引っ越し準備を済ませていくことに。

 それでも何とか子供も出発の前日に無事に退院することができて、最後の夜は家族全員で過ごすことが出来ました。子供が元気でないということは本当に辛いものです。

 

 本来、大阪転居時には家族全員で大阪へ行き、1週間ほど一緒に過ごす予定でした。しかしながら先述の入院に加えてコロナウィルス感染症の拡大の影響を受け、大事をとって私以外の家族はキャンセルすることに。

 そのため、鹿児島空港で家族との別れ。3人の子供達を改めて一人ずつ抱っこしてあげました。今思い出すだけでも泣けてくる。

 2020年3月25日。ついに、家族と離れての単身生活が開始したのです。

 

 

始まってしまった大阪での生活

 

 私は今年で37歳になりますが、鹿児島以外で生活をしたことがありません。全くもって初めての都会での生活。正直、不安が大きいスタートでした。

 

 そんな私を4畳半ほどのマンション一室が出迎えます。

 狭いけど、一人には広すぎる部屋。何もない、その場所から見えるあべのハルカスを望む夜景が新しい生活の始まりをしみじみと感じさせる夜になりました。

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 慣れない環境での生活。今までとは生活のスタイルが全く異なるものになります。

 そして何より、いつもそばにいた家族がいない生活になります。

 色々と考え出せば、不安や寂しさが大きくなってしまいますが、始まったからには前だけを向いて進むしかありません。負の感情に流されてしまっては、これからの生活を乗り切ることはできない。今の自分にできることをやる。それが大阪に来た私の命題になっているので、後悔しないよう日々を過ごしていくことを決意したのでした。

 

 そして明くる日から、再び行政への手続きと生活環境の整備を開始。仕事と学校が始まる1週間後に向けて着々と準備を始めたのです。

 

 

コロナウィルスの影響

 

 大阪での生活開始はコロナウィルスの影響で大幅な変更を強いられたわけですが、学校についても大幅な予定の変更をすることになりました。

 入学式は中止。授業開始は延期。後に自宅学習及びZOOMを使ったオンライン授業が開始になるわけですが、同級生との顔合わせもろくに行うことができないまま学生生活が開始することになりました。

 私の入学した夜間部であるII部建築学科は、日中仕事やアルバイトなどをしながら通学する人がほとんどであり、その仕事も様々であると言います。約半数は建築関係の仕事をされているようですが、私が医療職者であるように建築とは全く関係ない分野から建築士を目指す方もいらっしゃるようなので、様々な人たちの出会いも楽しみにしていた私としては少し残念でしたが、こればかりは仕方がありません。

 

 仕事の方は医療職であるためテレワークなどできるわけもなく普通に開始。1年ぶりに理学療法士として仕事を再開することになりました。こちらに来てからの仕事に関することはまた後日別記事にしようと思います。

 

 大阪は東京に次いで2番目に感染者の多い都市であり、やはり感染に対する恐怖はありました。世界的に感染が広がり、多数の死者を出しているウィルスが目の前にいるかもしれない。多くの人が行き交う通勤電車を利用し、病の人が集まる病院という職場で働く身としては、感染しないことが第一です。生まれて初めて体験する通勤電車や、鹿児島とは比にならない人の多さに圧倒される「余裕」もないほどにコロナウィルスの情報に振り回される形で4月、そして5月と過ぎて行きました。

 

 何をするにしても「コロナウィルス」がまず出てくる。コロナウィルスという存在が何よりも大きかったこの数ヶ月だったと思います。

 

 

そんな中で決めた目標

 

 想定外の連続でスタートした大阪での生活ですが、想定外であったが故に決めることのできたこともあります。

 予定通り学校へ行く生活であれば、時間的な余裕が今よりも明らかに少なかったと考えられます。そこで、この「想定外に」生まれた時間的な余裕を利用して資格試験の勉強をすることにしたのです。

 

 その目標として決めた資格が、「2級建築施工管理技士(学科のみ)」と「宅地建物取引士」の2つです。

 「2級建築施工管理技士」の資格試験は学科試験と実地試験があり、私の場合建築関係の実務経験が皆無であるため学科試験しか受けられません。しかし、37歳から建築士を目指すというただでさえ人よりスタートが遅れている状態であるため、建築に関する知識を少しでも獲得するために資格試験を受験するという手段をとって勉強することにしたのです。

 「宅地建物取引士」はいわゆる「宅建」というやつで、不動産の取引を行うことのできる資格になります。不動産関係の仕事に就くことを考えているわけではないのですが、この資格を取ろうと思ったのには二つ、理由があります。一つは建築に関する法規、法令について学ぶこと、そしてもう一つは、今後、環境を変えることで地方を変えるための取り組みを行っていくことを想定した場合、不動産の取引に関する知識は必ず必要になると感じているからです。

 

 それぞれ11月と10月に試験があるため、約半年弱の学習時間があります。自宅での時間に加え、電車通勤では行き帰り30分ずつ、往復約1時間テキストを読む時間があります。隙間時間や余裕のある時間を有効に利用していけば、両方合格も十分可能かと考えています。

 

 

 このように、想定外の連続で始まってしまった大阪での生活ですが、動き出してしまえばなんとかなるものだというのが実際感じるところです。

 

 何よりも大切な、「家族との時間」を犠牲にして始めた生活。無駄に過ごすことは自分自身が許せません。厳しく言えばそういう気持ちです。

 「自分にできること」しかできないので、自分にできることを最大限努力していこうと思います。

「適応」と「進化」に対する私見

 前回の記事から早2か月…。

 ボチボチ再開しようかと思います。

 

 以前の記事で、「認知症の原因はストレス社会に対する人体の適応ではないか?」という話をさせていただいたのですが、この「適応」ということについて普段私が考えることを書いてみようと思います。

 ↓認知症の話はこちらから。

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・「適応」と「進化」について

・人類の特徴「環境を変える」

・進化と生物としての人間の可能性

 

 

1.「適応」と「進化」について

 

 生物は長い年月をかけてその時々の環境に適応するために進化をしてきました。その根底を成すものは生物の設計図を言われるDNAの配列の変化です。

 DNAに記録されているものは「たんぱく質」の設計図であり、DNAが変化するということは合成されるたんぱく質が変化することになります。その結果、出来上がったたんぱく質が今までになかった効果を発揮することもあります。

 

 例えば、元来首の短かったキリンの「首の長さ」を司るたんぱく質に変化が起こり、今までよりも首が長くなった。この場合、結果として高い位置にある食料を確保できるようになり生存確率が向上したためにその変化を起こした種、そのDNAの変化が「環境に適応した進化」として存続していくこととなったのです。

 

 このような変化はいつもプラスに働いていたとは限りません。

 キリンの話に戻りますが、より高い位置にある食物を得るためにさらに「首の長さ」を司るたんぱく質に変化が起こり、さらに首が長くなったキリンが生まれていたとしましょう。長い首を支持するためにはさらに大きな身体を獲得する必要が生じ、身体全体が大きくなるようDNAの変化が起こった可能性があります。この地球という1Gの世界で大きな身体を維持するために必要なエネルギー量を確保するための食事量は増え、それを支えるだけの環境がなくなってしまう。その結果、その種は生存し続けることができなくなってしまい淘汰されることとなる。このようなこともあったかもしれません。

 

 そのような長い年月をかけた「Try and Error」を繰り返しながら、刻々と変化する地球の環境に生物は進化を続け、今現在の生態系に至っているのです。

 

 

2.人類の特徴「環境を変える」

 

 その中で「人類」という存在がいかに特殊か、ということを改めて感じさせられます。

 

 それまで「環境に適応」するように生体を進化させてきた流れにおいて、「脳」を進化させて「環境を変える」力を得たことで、生体の変化を伴わず環境に適応することが可能になったのです。衣服を身にまとうことで、体毛を増やす進化をせずに済んでいるのです。

 そして現代において、人類における科学の発達は環境に適応するという目的を超え、生活をより快適に行うために周囲の環境を変えるに至っています。身近なもので言えばエアコンがいい例であると思います。冬の季節、寒さをしのぐだけではなく、空気清浄などの機能も備えている。身の回りを今の身体で過ごしやすい環境にすることができるのです。

 

 その中にあっても、生体として変化し続ける機能を失ったわけではありません。人類の身体は変化し続けています。

 

 先日某テレビ局の番組でDNAのスイッチという話をしているのを観ました。DNAスイッチというものは、あるたんぱく質をコードしているDNAからタンパク質合成までのプロセスを発現させるかさせないかを司るものであり、このスイッチがオンになるとそのたんぱく質を多く発現しそれに応じた身体の効果を生じるようになるということでした。「進化」のように長い時間、世代を通してのDNAの変化だけではなく、生体が生きている間にもその生活上での刺激によってDNAのスイッチは切り替わるというものでした。

 

 健康志向によりジョギングやサイクリングなどを行う人が増えていますが、日常生活において運動機会を多く持つ人は、その分筋肉への刺激が多く、筋たんぱく質の合成も多く行われます。そうすることによって、筋肉の合成を促すDNAスイッチがオンの状態になり、筋肉がつきやすい体質になることが予測されます。これは逆に考えると、運動機会の少ない生活をする人は、そのスイッチがオフになり、なかなか筋肉がつきにくい体質になってしまうということも言えることになります。

 体温調節についても同様です。空調設備の発達に伴い、「汗をかきにくい人」が増えてきていると言われています。本来人間は、体温を下げる手段として汗をかき、体表の水分が蒸発する際の気化熱で体温を下げるという機能を備えています。しかしながら空調設備の恩恵により「体温が上がる」という機会が減ってしまうことによって、その「汗をかく」という一連のメカニズムに関する機能を担う器官が未熟になってしまっているというのです。これもひとえに環境に対する生体の適応であると考えられます。

 

 人間の身体は37兆個もの細胞で構成されていると言われています。その一つ一つを維持するために代謝が行われ多くのエネルギーを消費しています。生体としては、何も不便がないのであればできるだけ最小限の機能を備えている状態でいる方がエネルギー消費も抑えられ生存に有利になると判断されると考えられます。生体におけるエネルギーを発生の大部分は、細胞内に住んでいるミトコンドリアという器官に頼っているからです。ちなみにミトコンドリアミトコンドリアDNAという生体の細胞核にあるいわゆるヒトDNAと呼ばれるものとは異なるDNAを持つ器官です。興味のある方は「細胞内共生説」を調べてみてください。

 

 細胞を維持していくためにはエネルギーを大量に消費する。それならば必要ない機能はオフにしてできるだけ省エネで生存できるようにしよう。生体がそう判断し、生体としての人間の機能をいわゆる「退化」させてしまう可能性がある、ということなのです。

 

 最初に述べた認知症の原因の話についても、高度の身体的精神的ストレスを受ける環境に身を置き続けることで、生体は防御反応としてどうにか回避しようと生体を作り替えます。その結果として感情を司る前頭葉の脳細胞をアポトーシス(プログラムされた死、自然死)させ、「何も感じなくさせてしまえば手っ取り早いよね。他の機能残しておけば死にはしないし」という判断をDNAレベルにおいて生体が下している可能性があるわけです。

 

 先程は空調設備の例を挙げましたが、交通技術の発達により歩く機会が少なくなりました。オートメーション化により、身体を動かさずとも様々なことができるようになってきました。「暮らしの便利さ」は格段に向上していますが、それが生物としての人間の身体に及ぼす影響は決してプラスだけではないはずです。

 

 そういった意味でも、今後は便利さの中にもやはり人間がこの地球上に生存する一つの「生物」としての尊厳を維持していくことができるような生活環境を構築していくことが重要になっていくのだと思います。

 

 数年前より「バリアフリー」に対する「バリアアリー」という考え方が出てきました。生活環境におけるバリアを無くし、転倒などを未然に防止する環境は重要なのは間違いありません。しかしながら動作上のあらゆる障壁を除いてしまうことはそこに住まう人の残された機能を失活させてしまうことにつながりかねません。ある程度の「危険」を残すことによって、その危険を回避するためのアクションが起こり、その行動を通して生体としての機能を維持することが可能になる、という考え方なのだと私は解釈していますが、「危険だから」という理由だけで「安全」という環境だけを与えていくことは、その対象者をDNAレベルで機能低下させてしまうことにつながっていくと考えられるのです。

 

 日常生活を通して、人間が『自然な形で脳と身体を使う環境』というものを考えていきたいと思います。

 

 

3.進化と生物としての人間の可能性

 

 話を戻しますが、人間をはじめとした生体はその環境に「適応」するために「進化」してきました。生存の危機に及ぶような状況になるといわゆる突然変異と呼ばれるDNAの変化を起こした種が生じやすくなると言われています。先に述べたよう、それも全て発現するたんぱく質の性質によるものなのですが、この「たんぱく質」がどれほどの機能を持ちうるのか、今後の研究に興味が持たれます。

 

 人間の目は光に反応するたんぱく質と、色に反応するたんぱく質として三原色それぞれに対応したたんぱく質を合成できますが、世の中には赤外線や紫外線を見ることのできる生物がいます。それは赤外線や紫外線に反応するたんぱく質を合成することができるからです。ということは、何かの拍子に突然変異で赤外線や紫外線を「見る」ことのできる人間が生まれる可能性があります。

 

 その考え方で言えば、この世の中の物理的な刺激は、その刺激に反応するたんぱく質が存在すれば感受可能である可能性があると言えます。MRI室の前で不快を感じる人がたまにいますが、この人はひょっとしたら身体のどこかで磁場を感受しているのかもしれません。「霊感が強い」という人も、今はまだ解明されてはいませんが霊的な物に何かしら物理的なシグナルがあり、それを見たり感じたりするたんぱく質を持っているという可能性だってあるかもしれないのです。

 

 そのように考えていくと、これからも人間はその時の環境によってどのようにも「進化」し続けていくことができるのだと思います。

 

 地球から抜け出し宇宙へと生活の場が広がっていく未来もそう遠くはないように感じられてきました。これからも進化し続ける生物として、日々を感じていく暮らしをしていきましょう。

未来の生活を考える

 2019年現在、様々なサービスやモノが溢れ、IT技術の発展により生活は非常に便利になりました。自宅に居ながら様々な物を手に入れることが可能になり、人とのつながりも機械を介して世界中どこからでも獲得することができるようになっています。

 

 以前の空き家問題についての記事にも少し書きましたが、そのような時代になったにも関わらず地方においては人が減少していく一方であり、今後それぞれの地方において人を集めるための取り組みを行っていかなければならなくなっていると考えられます。

 今回はそのことについて、私の思うことを書いていこうと思います。

 

 ↓以前の空き家問題についての記事はこちらから。

ms-trss.hatenablog.com

 

 

 「未来の生活」と言えば話が大きくなってしまいますが、20年後、30年後、我々の生活はどうなっているか考えたことがありますか?間違いなく今よりも科学技術、情報技術は進歩して、生活はより便利になっていることと思います。

 

 私が生まれたのは1983年、今から36~37年前であり、物心がついたのはそれこそ30数年前になります。その時に今のような生活が来ると私自身は当然考えていなかったのですが、おそらくその当時の世の中に、「30年後はこんなものがあってこういう暮らしができていたら便利になる」と信じていた人がいて、そうなるように働きかけてきた結果が今の世の中であると考えられます。

 

 ではそのことを踏まえて、改めてこれから20年先、30年先にどのような世の中が来るのか?

 

 それは、自分が20年先、30年先にどのような生活を「したいか」と考えた結果見えてくるものなのです。言い換えるならば、これから20年先、30年先の世の中を考え、作り上げていくのは、今社会で活躍をしている全ての人々なのです。

 

 世界を変えるような画期的な発明や、世界有数の大都市に限った話だけではなく、この小さな島国の一地方でも大きく変わる可能性は十分に秘めています。

 「我々が高齢となった時に、この街で、このような暮らしをしたい」

という想いを持って働きかけていくことによって、環境が変わり、人やモノが動くことによってさらに環境が変わり、街は生まれ変わっていくものだと思います。

 しかしそれには長い時間がかかります。5年、10年、はては20年、30年かかって少しずつしか変わることはできません。だからこそ「今」から自分自身が暮らしたい「暮らしを作る」ことを始めなければならないと考えたのです。

 

 

 このようなことを考えるようになった発端は、私の勤める地域における医療介護福祉の現場での深刻な人手不足にあります。当然この業界に限ったことではないのですが、若い人たちが都市部へと流れていってしまうこともあり地方においては労働者が少ないという現状があります。個人病院など小規模な施設になると若手がほとんどおらず職員の平均年齢も押しあがり,まさに「老老介護」が行われているような場所も少なくありません。

 

 少ない人数で多くの高齢者などの暮らしを支えていかなければならないために、労働者への負担は大きくなる一方です。医療介護福祉の仕事は(この仕事だけではないのは当然ですが)人が幸せに暮らすことができるよう支える仕事であると考えていますが、この「人の幸せ」は決して「誰かの不幸」の上にあってはならないものです。高齢者の暮らしを支えるために、労働者の生活の質が下がり、心身共に疲弊してしまう。そのような環境は持続することが困難であり、やがて破綻してしまいます。

 

 

 この問題を解決し地方が今後何世代にもわたって持続していくためには、人の流れがあり循環する環境を整えなければなりません。そのため取り組むことの軸になる部分は何かと考えたときに、

 「20年先、30年先後に望む暮らしを想像し働きかけること」

であると感じたのです。20年、30年後というスパンはおおよそ世代が一つ変わる間隔になると思われます。自らが一つ上の世代の年齢になった時にこの場所でどのような暮らしをしていきたいのか、ということを考え、形にしていくことによって「住みやすい街」はできていくのではないでしょうか。

 

 私は今まで医療介護福祉の現場で、人の「生」と「死」について向き合ってきました。人が生きていく上で心身共に安定し、そして「死」を迎えていくためには、その人自身の状態を整えるだけではなく、その人を取り巻くヒトを含めた環境を整えることが非常に重要になることを実感したのです。

 

 そのために自分にできることは何か。今の医療介護福祉の仕事ではどうしても及ばない部分があります。

 「環境を変える」という部分については現状のままでは手が出せないと考えられるのです。当然、私一人で全てを行うことはできません。しかしながら建築という分野を学び「環境」についての知識と経験を身に付け、医療介護福祉の知識と経験を合わせた複数の専門職を持つ者」として活動を行うことで、幅広く人と人のつながりを生み出し、地域を変えるという大きなことに取り組む力を発揮できるようになると考えられるのです。

 それはちょうど、介護支援専門員が医療、介護、福祉の様々な知識を身に付け、多くの専門職者と連携を取って一人の人間の暮らしをマネジメントすることと同じであると思います。ゆくゆくは、医療介護福祉の分野と建築の分野を中心に各分野がより深くつながるための取り組みを行うことが私の目標です。

 

 20年先、30年先に、地域の中で医療介護福祉がもっと身近に感じられる環境のある暮らしがしたい。私はそのために自分にできることを行い、働きかけていきたいと考えています。